自然

 

引越しが落ち着いて、しばらく時間が経った。

毎日の生活もだんだんとルーティン化されている。

 

昨日たまたまyoutubeを観ていて、いろいろなYouTuberのモーニングルーティンやナイトルーティンを、おすすめに表示されるがままにつらつらと観ていた。

 

なかでも異彩を放っているのが、最近人気急上昇中のin livingさん。

ririkaさんという女性(モデル・女優をしていたそう)のシンプルで「自然な」暮らしを、おしゃれに、スタイリッシュに表現している。

いかに奇抜で、目を引いて、面白く、万人ウケするかが重要なYouTuberにおいて、その真逆を突き進んでいる感がある。

巷では「無印良品の擬人化」と言われているらしい。

 

でも、どうしても拭いきれない違和感があって、そんな「自然な」ライフスタイルを全世界に向けて発信するという行為そのものが、彼女のライフスタイルに反している気がしてならない。

 

インスタにも「ミニマリスト」を目指すたくさんの人たちが溢れているが、写真に文字を付けて目立つようにしていたり、信じられないくらいたくさんのタグを付けていたり、本当にミニマリストなのか疑いたくなるような人がいる。

 

in livingさんを批判したいわけじゃないが、彼女のライフスタイルから言って、それを撮影し、加工し、編集し、youtubeに投稿するという「反自然」な作業は、整合性が取れるんだろうか?

 

彼女のコメント欄に溢れる「尊い」という評価は、誰かの評価や賞賛すら必要とせず、自分なりに完結したライフスタイルを送る素敵な人のためにある言葉だと思えてならない。

 

 

こういう類いの話になると、いつも宮沢賢治を思い出す。

幼い頃からとても好きな詩人だ。

 

昨年、東北へ旅行に行って、花巻市宮沢賢治記念館へ行った。

そこには、彼の直筆の原稿やゆかりの品々がたくさん展示されていて、そこで改めて彼の「尊さ」を実感した。

 

彼はその素晴らしい詩才を、自分で完結して表現している。

だから、後世になるまで誰にも見られず、誰にも評価しなかった素晴らしい作品もいっぱいある。

彼はもともと農業研究者だったから、詩で生計をたてようともしていなかったし、自分の周りの生活や自然、込み上げてくる思いを、誰かに見せびらかすためではなく、純粋に自分のために書き綴ったのだ。

そこには、誰かに認められたい、自分の才能をみんなに知ってほしいというような「邪念」が少しもないように見えた。

 

ぼろぼろの直筆のノートや原稿を見て、その温かく歪んだ優しい文字を見て、これが詩の尊さ、彼の尊さなんだと感じた。

 

私も、in livingさんよりはむしろ、宮沢賢治のようでありたい。誰かに評価されるための「自然」より、ありのままの「自然」を選ぶ人でありたい。

 

 

10ヶ月

 

高校の同級生と交わした会話で未だに覚えていることがある。

その子は高校1年生の最初の席が隣で、そのままずっと仲良くしていた。

 

私と彼女は毎日一緒にお昼ごはんを食べていて、そのときどきでいろんな話をしていた。

そのときは、確か殺人事件が起こった次の日で、メディアも騒いでいて、自然とその話題になった。

 

私が「なんで、神さまは、人間が人間を殺せるような仕組みにしちゃったんだろうね。だれもだれかを殺せないように作ればよかったのに」と言うと、彼女はしばらく考えて、

「たぶん、それは人間が人間を産めるような仕組みになってるからで、人が人を産めることと、人が人を殺せることは、等価なんじゃないかな」と言った。

 

それが記憶に残っているのは、そのときはじめて、「命の尊さ」とか「生きることの大切さ」とかいう、これまで耳にしてきたぼんやりしたワードの輪郭線がはっきりしたからだと思う。

なぜなら、彼女のいう等価はすごく脆いことに気がついたからだ。

人が人を産むにはひとりでは無理だし、10ヶ月という長い時間がかかるくせに、人が人を殺すのは、ひどいときには誰の手も借りず、一瞬で出来てしまう、自分で自分を殺してしまうこともある。

この等価の脆さこそが、命が大事だという直感的な感覚の本質なのかもしれないと思ったのだった。

 

翻って、

誰かが誰かを殺すには、必ず10ヶ月がかかって、殺す側にも妊娠や出産くらいの大変な労力と痛みがかかればよいのに、と思う。

 

病気とか災害とか、人の死にかたはいろいろあるが、どれも10ヶ月かかるようにできれば、周りの人が出産を待ち望むのと同じ熱量で、納得のいくさよならが出来るだろう。

 

森博嗣の新シリーズで、医療技術が進歩してほぼ全ての人間が死ななくなった世界を描いている作品がある。

 

人間は人工細胞によって新しい活発な細胞を取り込んで老衰を解決し、病気や怪我は代替細胞によってすぐに治癒してしまう。

 

将来こういう世界を目指しているのなら、心臓や脳に強力なプロテクトをかけて、死ぬにせよ殺すにせよ最低10ヶ月がかかるようにしてほしい。

 

そのとき、「命の尊さ」はどう変わるんだろう。

 

という話。

 

 

 

生煮え

 

本会議が終わり、ロープウェー問題は意外とあっさり片付いた。

ロープウェーを公約に掲げて当選した市長と、市民の声を代表して議会に座る議員がそれを否定するという矛盾を、どう考えるべきだろうか。

 

似た話でいえば、批判ばかりのブレグジットトランプ大統領も、選んだ側の「大衆」が、自分たちの決断に責任を取ることができていないように見える。

 

一部の貴族や聖職者が牛耳っていた社会を取り戻すために民主政や国民主権が叫ばれたとして、自らの社会を自らが決めるという権利を得たなら、その社会が得た決断を受け入れるという義務も生じるのでは。

 

ノブリスオブリージが、彼らの権利と同じだけの義務を騙るなら、現代の有権者の肩には一律にノブリスオブリージが課せられているはずだ。

 

ケネディ大統領が語ったような、「国が自分たちに何をしてくれるかではなく、自分たちが国に何をできるかを考えてほしい」というメッセージは、今日あまり取り上げられていないように思う。

 

先日、職場の勉強会で、公営事業の民営化について議論があった。

大きな問題はいくつかあるが、そのなかでも重要とされる問題は、民営化によって採算の取れる地域にサービスが偏り、採算の取れない地域は切り捨てられてしまう、ということだ。

 

これに漠然とした違和感を覚えたのだが、採算の取れない地域に住んでいる人にとって、そこから移動するという選択肢はないのだろうか?

全体最適のための犠牲は、たとえばそれが強制されるべきものではないにせよ、奨励されうるのではないだろうか?

 

こういう発想は、現代では全体主義権威主義として嫌悪されることが多いが、主義主張ではなく、ミクロな視点で捉えると、問題がわかりやすくなる。

 

たとえばあなたは限界集落にいて、バスが無ければ到底生活が成り立たない。

ところが、バスの利用率は年々減ってきていて、採算が取れなくなっている。採算の取れないバス路線のために、バス会社の経営は悪化し、路線廃止の検討がなされている。

 

この場合に、あなたには2つの選択肢が与えられるとする。

ひとつは、あなたがその地域や住宅に住みつづけたいと願う個人的・属人的な事情から、バス路線の存続を訴え、バス会社の経営改善を求めたり(その方法として多くの従業員の人件費が削られるのかもしれない)、運賃の値上げで対応したり(あなたの都合をあずかり知らぬ誰かの定期が値上がりするかもしれない)して、なんらかの形であなたの生活が守られる場合。

 

もうひとつは、あなたは採算が見込めるバス路線が通る地域に引越し、個人的・属人的な事情とはなんらかの折り合いをつけて暮らし、バス路線は廃止される場合。

 

これはひとつの例だけれど、結局、ノブリスオブリージや市民の義務といったものは、個人の利害と集団の利害のどちらを優先させるか、という問題につながっている。

 

わたし個人としては、わたしが困ることよりも、わたし以外の誰かが、しかも複数の誰かが困ることのほうが、わたしの心は痛むし、その事態を避けたいと思う。

その事態を避けるためなら、自分の犠牲を払ってしまうほうが望ましいと思う。

なぜなら、社会を構成するさまざまな意思決定は、こんにち民主主義的な手法が取られ、わたし自身もその社会の一員としてそれに同意し、恩恵を受けているからだ。

 

ありとあらゆる社会問題のなかで、社会構造や、経済状況や、あるいは行政的な判断の良し悪しが、その問題を引き起こしたり、解決する能力を持たなかったりすることが問題視され過ぎているのでは、ということ。

もっと重要なのは、あらゆる問題の当事者が、社会をどう捉え、問題解決のために社会に対して何ができるのか、という「意思」の方ではないかと思う。

 

もちろん、個別具体にはたくさんの問題があって、いちがいに言えないことが多いけれど。

 

それから、若干議論と外れてしまうが、マイノリティへの態度の問題も、民主主義の維持に影を落としている。

 

マイノリティを認め、みんな違ってみんないい、全員がすべからく生きやすい社会へ、という動きや、個人の権利を最大限に確保するべきだという言論のうらには、その社会では、社会全体の意思をいかにして決定するのか、現在わたしたちが採っている、マジョリティ(かつての「大衆」)の不自由を解放し、マジョリティの意思を尊重すべきだとする民主主義と、どう整合性を取るのか、という問題も隠れている気がしてならない。

 

生煮えで、思いついたことを並べただけになった。

この問題の反論については、追ってまた書く。

 

 

 

 

 

 

木霊

 

だれかが職場から退勤するとき、見送る側も「お疲れさまです」を何となく言うのだが、

今日、お昼の3時ごろに、同じ課の人が突然、だれかが退勤するときのトーンで「お疲れさまです」と言った。

だれも帰っていないのに。

 

たぶん、隣の隣の課が、社内の電話を受けていて、「お疲れさまです」と言ったのを、

だれかが退勤すると勘違いして無意識に木霊したらしい。

 

という話。

 

ブックオフの1番奥の書棚で、大きな声で「いらっしゃいませ〜」と言うと、

店員さんがみんなで「いらっしゃいませ〜」を木霊してくれるから、

自分は1人じゃないって思える、というネタツイを見たことがある。

 

あの無思考型反射はすごいと思う。

教育というものがどれだけ人間の神経に作用できるかを如実に現している。

冷静になって考えると、誰かが言ったことに木霊するべきだと教えられた瞬間がどこかにあるわけで、その記憶と意識がすでに無意識に変わっていて、耳がその音を聞き分けて口が発話までするわけだ。

 

そういえば先週、服を買いに行ったら、

店員さんが甲高い声で「いらっしゃいませこんにちは〜」を繰り返していて、

お母さんに連れられた3,4歳くらいの女の子が、面白がってそれを大声で繰り返していた。

店員さんも、掛け声をやめるわけにもいかず、その数分間はカオスだった。

 

その数分間ではじめて店員さんの掛け声を意識するくらいだから(掛け声がなされていることと、それが女の子にとって面白いと感じるくらいに不自然な発話であることも)、普段は耳に入ってそのまま抜けているということだ。

 

ことばに関する捉え方は人それぞれで、

良し悪しもないけれど、

本当に必要なことばってそんなに多くない気がする。

本当に必要なことばだけを選り抜いたら、どれだけ静かな世界になるんだろう。

 

という話。

 

 

謹呈

 

きょうは休みを取って、引越。

といっても、どうしても外せない仕事があって、午前中だけ出勤した。

退勤間際、職場の先輩が送ってくれた論文を受け取った。

 

ちょうど今週の勉強会で発表をした先輩が、

大学時代に江戸時代の死者の供養に関する政治文化学的な論文を書いていて、

きちんとした歴史雑誌に掲載されたものを

抜き刷りして送っていただいたのだ。

 

勉強会の後、たまたまお互いが歴史を学んだことを発見し合い、

日本史と西洋史という差はあれど、

このまちが歴史を軽視しすぎてはいまいか、と

公務員として危惧していることもわかった。

 

その延長で互いの研究のさわりを話し、

論文まで読み合うことになったのだった。

 

受け取った論文の表紙には、「謹呈」の文字とわたしの名前があった。

くすぐったい気分。

 

引越しのための荷物を運んだり、日用品の買い出しに行ったりしたあと、

カフェに寄って論文を読んだ。

 

控えめに言っても素晴らしい論文だ。

興味深いことに、西洋史を齧っていないはずなのに、西洋史のトレンドの手法がふんだんに取り入れられていて、

西洋史でも適用可能な議論がなされている。

政治がリチュアルだった西洋中世と極めて似ている。

 

わたしの指導教官は西洋中世史の政治における「コミュニケーション」を研究していて、

政治に現れるリチュアルがコミュニケーションにおいて

重要な役割があることを証明していた。

 

国王が、敵対していた臣下の謝罪を受け入れ涙する。

教皇との関係が危ぶまれると、

宮廷を国内中に動かしながら領地を守ろうとする。

新たに騎士になろうとする者には、国王みずからが剣を持って任命する。

 

「ことば」に頼らないコミュニケーションが、

西洋中世では大きなウエイトを占めていた。

 

 

大学時代には週に1回ゼミがあって、

論文を順番に読んでいくのだが、

英語やフランス語やドイツ語ばかりで、

毎週辟易していたものだ。

院生がすらすらと議論しているのを横目に、

語学力でつまづいて、悔しい思いをした記憶がある。

京都の空気を久しぶりに吸い込んだ気になった。

 

自分の研究自体は本当に好きで、

何時間も図書館にこもって史料に没頭していた。

あれから3年が経って、すっかりあのときの集中力を失っている。

また勉強したい。知りたい。わかりたい。

先輩のように、5年も6年も経っても、

ビビッドに語れる研究でありたい。

 

 

そのための「謹呈」なのかもしれない。

しかと受け取りました。

 

 

 

 

 

 

継続は力なり

 

きのう職場の勉強会に行って、

先輩がブログを書いていることを知った。

 

なかなかに熱いブログで、

きのうのように騒いで帰った夜中の1時半にも

ぐいぐい読めてしまうブログである。

 

読んだ本のこと、

世間を騒がしていること、

職場のこと、

身の回りにある事象をどう受け止めて消化し、

自分のものにするか、

そしてそれを文字に起こして他者にどう発信するか、

お手本を見せていただいた感。

 

そして、ちょうど最近考えていたこと、

わたしは何かを継続することがものすごく苦手で、

飽き性なところがある。

 

というわけで、

レーニングがてら、

毎日少しずつなにかを文字にアウトプットしてみたい。

備忘録、日記、日報のようなもの。

 

会話や議論と違って、文章は自己完結型で独善的になりがちだから、

ひとつの思いや考えを書いたあとには、

かならず違う視点から同じことを見てみるようにしたい。

 

また、個々の質よりも継続性を重視して、

集めている欠片や捏ねている段階のものでも

取り急ぎアウトプットすることを心がける。

いささか自己満足になるけれども。

まずは自己満足から。

 

 

タイミングは重なるもので、

明日はいきなり引越。

新居1日目からはじめよう。