10ヶ月

 

高校の同級生と交わした会話で未だに覚えていることがある。

その子は高校1年生の最初の席が隣で、そのままずっと仲良くしていた。

 

私と彼女は毎日一緒にお昼ごはんを食べていて、そのときどきでいろんな話をしていた。

そのときは、確か殺人事件が起こった次の日で、メディアも騒いでいて、自然とその話題になった。

 

私が「なんで、神さまは、人間が人間を殺せるような仕組みにしちゃったんだろうね。だれもだれかを殺せないように作ればよかったのに」と言うと、彼女はしばらく考えて、

「たぶん、それは人間が人間を産めるような仕組みになってるからで、人が人を産めることと、人が人を殺せることは、等価なんじゃないかな」と言った。

 

それが記憶に残っているのは、そのときはじめて、「命の尊さ」とか「生きることの大切さ」とかいう、これまで耳にしてきたぼんやりしたワードの輪郭線がはっきりしたからだと思う。

なぜなら、彼女のいう等価はすごく脆いことに気がついたからだ。

人が人を産むにはひとりでは無理だし、10ヶ月という長い時間がかかるくせに、人が人を殺すのは、ひどいときには誰の手も借りず、一瞬で出来てしまう、自分で自分を殺してしまうこともある。

この等価の脆さこそが、命が大事だという直感的な感覚の本質なのかもしれないと思ったのだった。

 

翻って、

誰かが誰かを殺すには、必ず10ヶ月がかかって、殺す側にも妊娠や出産くらいの大変な労力と痛みがかかればよいのに、と思う。

 

病気とか災害とか、人の死にかたはいろいろあるが、どれも10ヶ月かかるようにできれば、周りの人が出産を待ち望むのと同じ熱量で、納得のいくさよならが出来るだろう。

 

森博嗣の新シリーズで、医療技術が進歩してほぼ全ての人間が死ななくなった世界を描いている作品がある。

 

人間は人工細胞によって新しい活発な細胞を取り込んで老衰を解決し、病気や怪我は代替細胞によってすぐに治癒してしまう。

 

将来こういう世界を目指しているのなら、心臓や脳に強力なプロテクトをかけて、死ぬにせよ殺すにせよ最低10ヶ月がかかるようにしてほしい。

 

そのとき、「命の尊さ」はどう変わるんだろう。

 

という話。