謹呈

 

きょうは休みを取って、引越。

といっても、どうしても外せない仕事があって、午前中だけ出勤した。

退勤間際、職場の先輩が送ってくれた論文を受け取った。

 

ちょうど今週の勉強会で発表をした先輩が、

大学時代に江戸時代の死者の供養に関する政治文化学的な論文を書いていて、

きちんとした歴史雑誌に掲載されたものを

抜き刷りして送っていただいたのだ。

 

勉強会の後、たまたまお互いが歴史を学んだことを発見し合い、

日本史と西洋史という差はあれど、

このまちが歴史を軽視しすぎてはいまいか、と

公務員として危惧していることもわかった。

 

その延長で互いの研究のさわりを話し、

論文まで読み合うことになったのだった。

 

受け取った論文の表紙には、「謹呈」の文字とわたしの名前があった。

くすぐったい気分。

 

引越しのための荷物を運んだり、日用品の買い出しに行ったりしたあと、

カフェに寄って論文を読んだ。

 

控えめに言っても素晴らしい論文だ。

興味深いことに、西洋史を齧っていないはずなのに、西洋史のトレンドの手法がふんだんに取り入れられていて、

西洋史でも適用可能な議論がなされている。

政治がリチュアルだった西洋中世と極めて似ている。

 

わたしの指導教官は西洋中世史の政治における「コミュニケーション」を研究していて、

政治に現れるリチュアルがコミュニケーションにおいて

重要な役割があることを証明していた。

 

国王が、敵対していた臣下の謝罪を受け入れ涙する。

教皇との関係が危ぶまれると、

宮廷を国内中に動かしながら領地を守ろうとする。

新たに騎士になろうとする者には、国王みずからが剣を持って任命する。

 

「ことば」に頼らないコミュニケーションが、

西洋中世では大きなウエイトを占めていた。

 

 

大学時代には週に1回ゼミがあって、

論文を順番に読んでいくのだが、

英語やフランス語やドイツ語ばかりで、

毎週辟易していたものだ。

院生がすらすらと議論しているのを横目に、

語学力でつまづいて、悔しい思いをした記憶がある。

京都の空気を久しぶりに吸い込んだ気になった。

 

自分の研究自体は本当に好きで、

何時間も図書館にこもって史料に没頭していた。

あれから3年が経って、すっかりあのときの集中力を失っている。

また勉強したい。知りたい。わかりたい。

先輩のように、5年も6年も経っても、

ビビッドに語れる研究でありたい。

 

 

そのための「謹呈」なのかもしれない。

しかと受け取りました。