生煮え

 

本会議が終わり、ロープウェー問題は意外とあっさり片付いた。

ロープウェーを公約に掲げて当選した市長と、市民の声を代表して議会に座る議員がそれを否定するという矛盾を、どう考えるべきだろうか。

 

似た話でいえば、批判ばかりのブレグジットトランプ大統領も、選んだ側の「大衆」が、自分たちの決断に責任を取ることができていないように見える。

 

一部の貴族や聖職者が牛耳っていた社会を取り戻すために民主政や国民主権が叫ばれたとして、自らの社会を自らが決めるという権利を得たなら、その社会が得た決断を受け入れるという義務も生じるのでは。

 

ノブリスオブリージが、彼らの権利と同じだけの義務を騙るなら、現代の有権者の肩には一律にノブリスオブリージが課せられているはずだ。

 

ケネディ大統領が語ったような、「国が自分たちに何をしてくれるかではなく、自分たちが国に何をできるかを考えてほしい」というメッセージは、今日あまり取り上げられていないように思う。

 

先日、職場の勉強会で、公営事業の民営化について議論があった。

大きな問題はいくつかあるが、そのなかでも重要とされる問題は、民営化によって採算の取れる地域にサービスが偏り、採算の取れない地域は切り捨てられてしまう、ということだ。

 

これに漠然とした違和感を覚えたのだが、採算の取れない地域に住んでいる人にとって、そこから移動するという選択肢はないのだろうか?

全体最適のための犠牲は、たとえばそれが強制されるべきものではないにせよ、奨励されうるのではないだろうか?

 

こういう発想は、現代では全体主義権威主義として嫌悪されることが多いが、主義主張ではなく、ミクロな視点で捉えると、問題がわかりやすくなる。

 

たとえばあなたは限界集落にいて、バスが無ければ到底生活が成り立たない。

ところが、バスの利用率は年々減ってきていて、採算が取れなくなっている。採算の取れないバス路線のために、バス会社の経営は悪化し、路線廃止の検討がなされている。

 

この場合に、あなたには2つの選択肢が与えられるとする。

ひとつは、あなたがその地域や住宅に住みつづけたいと願う個人的・属人的な事情から、バス路線の存続を訴え、バス会社の経営改善を求めたり(その方法として多くの従業員の人件費が削られるのかもしれない)、運賃の値上げで対応したり(あなたの都合をあずかり知らぬ誰かの定期が値上がりするかもしれない)して、なんらかの形であなたの生活が守られる場合。

 

もうひとつは、あなたは採算が見込めるバス路線が通る地域に引越し、個人的・属人的な事情とはなんらかの折り合いをつけて暮らし、バス路線は廃止される場合。

 

これはひとつの例だけれど、結局、ノブリスオブリージや市民の義務といったものは、個人の利害と集団の利害のどちらを優先させるか、という問題につながっている。

 

わたし個人としては、わたしが困ることよりも、わたし以外の誰かが、しかも複数の誰かが困ることのほうが、わたしの心は痛むし、その事態を避けたいと思う。

その事態を避けるためなら、自分の犠牲を払ってしまうほうが望ましいと思う。

なぜなら、社会を構成するさまざまな意思決定は、こんにち民主主義的な手法が取られ、わたし自身もその社会の一員としてそれに同意し、恩恵を受けているからだ。

 

ありとあらゆる社会問題のなかで、社会構造や、経済状況や、あるいは行政的な判断の良し悪しが、その問題を引き起こしたり、解決する能力を持たなかったりすることが問題視され過ぎているのでは、ということ。

もっと重要なのは、あらゆる問題の当事者が、社会をどう捉え、問題解決のために社会に対して何ができるのか、という「意思」の方ではないかと思う。

 

もちろん、個別具体にはたくさんの問題があって、いちがいに言えないことが多いけれど。

 

それから、若干議論と外れてしまうが、マイノリティへの態度の問題も、民主主義の維持に影を落としている。

 

マイノリティを認め、みんな違ってみんないい、全員がすべからく生きやすい社会へ、という動きや、個人の権利を最大限に確保するべきだという言論のうらには、その社会では、社会全体の意思をいかにして決定するのか、現在わたしたちが採っている、マジョリティ(かつての「大衆」)の不自由を解放し、マジョリティの意思を尊重すべきだとする民主主義と、どう整合性を取るのか、という問題も隠れている気がしてならない。

 

生煮えで、思いついたことを並べただけになった。

この問題の反論については、追ってまた書く。